小宮あんりができるまで

こんにちは、小宮あんりです。

オギャーと生まれるその瞬間まで

母はオギャーと生まれるその瞬間まで、私が男の子であると確信?していたそうで、名前は当時ノーベル賞を受賞された江崎玲於奈博士の名前をそのまま採用!するつもりだったそうです。はたして結果は女の子で、驚いてしまった母にかわり、わたしの安里(あんり)という名前は叔母が(なぜか)命名したそうです。当時は杏子の杏が常用漢字として認められておらず、「安らぎの里」となったそうですが、その頃ではまだ珍しい名前だったので、よく名前を“ヤスリちゃん”などと間違えられたりしました。

私は、父が生まれて育った埼玉県比企郡吉見町で育ちました。杉並から北に55キロ、今でも人口2万人の小さい町ですが、星空がきれいで手打ちうどんがとっても美味しい!自慢の故郷です(隣町の東松山市はこれまた美味な焼きトンがB級グルメとして有名です)。父は定年を迎えるまで、東京の全国共済農業協同組合連合会に勤務。現在は、JA埼玉中央理事として活動しています。母は嫁いでからすぐ、自宅から自転車で3分の吉見町商工会に勤務し、定年を迎えるまで祖母の面倒をみながら働いて父とともに家計を支えてくれました。

祖父母への思い

両親とも共働きだったため、私は生れてからすぐ同居する祖父母に面倒をみてもらいました。祖父は農業の傍ら、近所の商店に勤め、お米や灯油など日用品の配達をしていたので、日中はもっぱら祖母と過ごしていたそうです。当時は三毛作といって米、麦に次いで、イチゴも収穫していたので、祖母は祖父とともに農作業をしながら、私の面倒を見てくれました。そんな祖母は無理がたたったのか、私が2歳半の時にくも膜下出血で倒れ、2週間意識不明となりました。のちに祖母から聞いた話では、三途の川まで見てきたそうです。祖母は意識が回復したものの、右半身不随の身体障がい者となりました。
母も勤めがあったので、わたしは3歳を迎える前に、吉見町下砂保育園に入園しました。小さかったから、というより当時は相当な人見知りで、保育園に到着しても入口から一歩も園内に入らず、お昼も食べずに泣き通しで、そのうち先生が外に敷いてくれたゴザに座り込んで寝てしまうという日を一週間も続けたそうです・・・先生に大感謝です。保育園への朝の送りは母が、迎えは祖父が来てくれました。祖母が身体が不自由になってからは、祖父にべったりだったそうです。私が4歳を迎えたころ、そんな祖父が急逝しました。心筋梗塞でした。祖父が亡くなったことは、当時あまり理解できなかったように思います。記憶が途切れているのです。その後、思い出すのは、リハビリをして何とか身の回りのことを一人でできるようになった祖母に、再び面倒を見てもらうようになった小学生時代です。

小学校まで歩いて一時間

小学校は吉見町立北小学校に1時間かけて歩いて通いました。低学年の頃は相変わらずの人見知りでしたが、そのうち良き友達にも恵まれて、6年生で児童会長を務めました。小学生時代の趣味はファミコンとマンガ。「あさりちゃん」は何度も読みました!短距離走と幅跳び、ハードル競走が得意で、吉見町立吉見中学校に入学した際は、迷うことなく陸上部に入部しました。たぶん、母が中学・高校と陸上部だったことも影響していたと思います。迷わず入部した割には、競技での結果も出ず、中学時代は勉強も嫌いで反抗期だったと思います。そんな私の理解者である中学時代の女ともだちとは、三十路を過ぎたころから、たまに一緒に飲みにでかけるようになり、当時と変わらぬまま色々な相談にのってもらっています。

ゴル女

高校は近所にできたばかりの私立の東京農業大学第三高等学校を受験しました。何となく、英語コースに進みましたが、思えば小学校の頃に書いた将来の夢がなぜか「通訳になること」だったことを思うと、それなりに考えた結果だったのかもしれません。部活はガラッとかわってゴルフ部!に入部しました。スコアは散々でしたが、息の合うゴル女(ごるじょ・ゴルフ部女子)仲間は今でも私の宝です。英語コースに進んでよかったと思うのは、3年間を通じてクラスのメンバーが一緒で連帯感が得られたということと、担任してくれた加藤先生にお世話になったことです。いくら勉強しても自信のない自分を大いに励ましてくれた先生でした。

加藤先生の他にも数学の塩崎先生(通称しお爺、当時でもかなり高齢)は印象的で、「サイン、コサイン、タンジェント!」と息高まると教壇から転がり落ちてしまうこともしばしば。数学なんか好きじゃありませんでしたが、そんな一生懸命な先生の期待に応えたくて必死で勉強しました。お陰様で、特待生にも選んで頂いたり、学校が創立10周年を迎える年、創立以来初めて上智大学への合格者(まさかのわたし!)となり、無事にメデタク卒業したのでした。そういえば。高校では私の将来を左右する大きな出来事がありました。

38度線を目のあたりに

それは修学旅行で韓国に行ったことです。板門店で38度線を目のあたりにして、そこに徴兵制で入隊している若者と会い、日本にこんなに近いところで休戦中とはいえ戦争状態が続いている国があることにとてもショックを受けました。そして、大学では歴史を勉強してみようと思い立ち、上智大学の文学部史学科に入学したのでした。
学ぶうちに、(専攻は日本近現代史・長田彰文教授ゼミでしたが)「なんだ、世界の歴史は政治が決めてるんじゃないか!」と思い、政治の“現場”を知りたくなりました。そして大学4年当時に行われた参議院選挙で自民党候補者の選挙をお手伝いしたことがきっかけで、この世界に飛び込みました。

しゃぶ

そうそう、大学で選んだ部活は体育会自動車部(通称:しゃぶ・・・)です。中学にも、高校にもない部活を選びたかったのですが、元来、小さい頃からトヨタのセリカを見ると目がキラキラする車好きな女の子でした。自動車部ではラリーやジムカーナといったモータースポーツのほかに、車の整備なども経験しました(ズバリ苦手でしたけど)。初めての愛車は中古でトヨタのレビン(AE92)。キャー!10年乗ってその後、やはり中古のトヨタ・MR2に買い換えました。街乗りだけですけど、今でもよく走ってくれてます。

石原代議士の秘書に

さて。石原伸晃代議士の事務所に入所して最初の1年間は国会事務所で代議士の日程調整を担当するかたわら、当時行われていた統一地方選挙の街頭活動などもお手伝いしました。もともと、選挙区で生の声を聞きたいという希望を持っていたので志願して2年目からは後援会女性部の担当になり選挙区・杉並の阿佐谷事務所に勤務となりました。
最初に女性部の幹事さんのお宅に挨拶回り!と勢い勇んで自転車で出掛けましたが、道は知らないわ、田舎者の自分は家の多さに戸惑うわ、道行く人に道を聞いても無視されるわで、杉並のいろはを覚えるまでに本当に時間がかかりました。でも後援会の皆さんの母のような優しさに支えられてなんとかやってこれたと思います。石原夫妻と後援会の皆さんとの接点をつくるために、旅行会や講演会の開催、国会参観のご案内などの各種イベントを企画しました。旅行会で印象的なのは東京湾クルーズです。船を2隻借り切って1,000人の女性限定!企画となりました。当時は確か石原代議士が行革大臣に就任され、その興奮と熱気も旅行会を盛り上げてくれました。講演会には石原慎太郎東京都知事や中村玉緒さん、みのもんたさんにも来て頂きました。

人と人とのつながりのある街

自分の担当行事のほかに、地域の行事や商店街の活動に参加して、自分たちの街を守り、発展させ後世に引き継いでいこうとする多くの方が頑張っている姿には杉並のコミュニティーの強さを感じました。年が明けると新年会が町会・商店会・各種団体・趣味の会で開かれるので、その場に代議士の代理で伺って新年のご挨拶。節分には神社やお寺での節分祭で裃を着けて豆まきも経験させて頂きました。
その後、初午祭。今も都市農業を頑張って続けている皆さんが杉並には多いのですが、お稲荷様のお祭りで豊穣祈願や地域の安寧を祈ります。春はお花見で善福寺川沿いは人であふれます。夏には各町会やPTA、育成会、商店会で盆踊りや夏祭りが催され、秋には神社を中心に多くの御神輿が杉並各地を巡行します。暮には夜警をして消防団の皆さんを中心に地域の安全を見守ってくれる。もちろん、日頃から防犯パトロールや慈善活動の多くを地域に根差した方々が支えてくれています。杉並には古き良き伝統と文化を守る精神を持った多くの先輩がいて、その方々が後世の世代のために誇りを持って街を維持・発展させているのだと常々実感しています。

多くの方に支えられて

また石原事務所では選挙以外にも駅頭をはじめとする街頭活動を通じて、有権者に政治活動を積極的にアピールする事の大切さを学びました。選挙といえば・・・近年は選挙中にもかかわらず他候補の応援等でほとんど自身の選挙区にいられなくなった代議士に代わり、多くの支援者に支えられて、里紗夫人と女性部主催の演説会を開催できたことは本当に貴重な経験となりました。候補者が不在であろうと、石原代議士を信じ、何の見返りも求めず、どんなに逆風が吹こうが、我がことのように熱心にご支援くださる後援者の皆さんの姿勢には本当に熱く心を動かされました。
自分に関係ないことには触れない世の中になったと言われますが、誰かのために、地域のために、将来の子供たちのために、自信と責任をもって頑張っている人たちはおられるのです。そういう皆さんとともに、杉並を、東京を、日本をより良い社会にしていこうと2011年、自民党の公募に応募し、自民党の公認候補として都議会議員選挙に挑戦。お陰様で初当選を果たさせていただきました。