両親とも共働きだったため、私は生れてからすぐ同居する祖父母に面倒をみてもらいました。祖父は農業の傍ら、近所の商店に勤め、お米や灯油など日用品の配達をしていたので、日中はもっぱら祖母と過ごしていたそうです。当時は三毛作といって米、麦に次いで、イチゴも収穫していたので、祖母は祖父とともに農作業をしながら、私の面倒を見てくれました。
そんな祖母は無理がたたったのか、私が2歳半の時にくも膜下出血で倒れ、2週間意識不明となりました。のちに祖母から聞いた話では、三途の川まで見てきたそうです。祖母は意識が回復したものの、右半身不随の身体障がい者となりました。
母も勤めがあったので、わたしは3歳を迎える前に、吉見町下砂保育園に入園しました。小さかったから、というより当時は相当な人見知りで、保育園に到着しても入口から一歩も園内に入らず、お昼も食べずに泣き通しで、そのうち先生が外に敷いてくれたゴザに座り込んで寝てしまうという日を一週間も続けたそうです・・・先生に大感謝です。保育園への朝の送りは母が、迎えは祖父が来てくれました。祖母が身体が不自由になってからは、祖父にべったりだったそうです。私が4歳を迎えたころ、そんな祖父が急逝しました。心筋梗塞でした。祖父が亡くなったことは、当時あまり理解できなかったように思います。記憶が途切れているのです。その後、思い出すのは、リハビリをして何とか身の回りのことを一人でできるようになった祖母に、再び面倒を見てもらうようになった小学生時代です。